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まだ名寄本線や羽幌線、深名線などの今は亡き路線が網の目のように張り巡らされていた時代ですね。車掌さんのなんだか落ち着く声とガタンゴトンという音、深夜の時刻が書かれた時刻表も相まって旅愁を誘われました。僕は21世紀生まれなので北海道に夜行列車や大量の鉄道路線があった時代を知らないのですが、もしタイムスリップできるなら行ってみたいとずっと思ってます...
貴重な録音ありがとうございます。先日特急宗谷に乗りましたが、多分同じ停車駅ですね。音威子府駅から学生らしい方が沢山乗車されました。宗谷本線まだまだ頑張って欲しいです。
同感です。宗谷本線が地震や台風などの自然災害で、甚大な危害に逢わないように祈るばかりです。
この頃の利尻は知りませんが、旅行気分にさせてくれます。国鉄時代にタイムスリップ。貴重な録音ありがとうございます。
レコーダーを窓際のテーブルに乗せて録音したため、窓が震える音を拾ってしまいましたが、それも味のうち・・・ということで・・・
急行宗谷様 利尻の車内放送、やっぱり今日もまた聞きました。本当に昭和40年代(1970年代)を思い出します。何度聞いてもいいですね。当時の旭川駅は24時間汽車が発着していました。何度も駅構内で寝袋で寝ていました。若いね!当時は18歳。
私も学生時代、北海道ワイド周遊券で宿がわりによく乗車しました。ほんと懐かしい。車内の風景まで浮かんできます。国鉄マンの誇りがこもっている様な、多分ベテラン車掌さんの、素晴らしく美しい日本語のアナウンスに、聞き惚れます。今もご健在なら、現在の北海道の鉄道の姿を見て、どの様な思いをされているでしょうねえ。
何本かの列車の放送をUPしながら、わたくしも「この時の車掌さんは今どうしているだろう・・・」といつも思います。
客車のコトンコトンをBGMに、アナウンスに合わせて路線図と時刻表が掲示される画面、同乗している気持になります。ありがとうございました!
ほんの少しでも汽車旅の気分を感じて頂けたら嬉しいです。
北海道周遊券で、夜行急行自由席を使いまくった旅行を学生時代にしました。利尻、懐かしいです。途中やかましゅうございますから、って自虐ぶりも良いです。
周遊券愛用者にとって、道内の夜行急行はお馴染みでしたね。
上野からあけぼので青森へ、青森からはまなすで札幌へ、札幌から利尻で稚内へ。今では考えられない贅沢な夜行列車の旅をしました。
貴重なる録音、その一言です。昭和46年夏8月のひとつ期間周遊、さらに昭和47年2月から3月までの二か月間周遊、楽しい汽車の旅をしました。それを彷彿させる録音です。感謝!!
感謝のお言葉ありがとうございます。昔の旅を思い出して頂けて何よりです。
@@急行-宗谷 様 訂正します。二度目の旅行は昭和48年の2月から3月末までの2か月間でした。私は、上り列車の利尻には乗ったことがありません。しまし、下りの利尻には複数回乗車しています。このような車掌のアナウンスが聞け思い出いっぱいです。列車では、四人掛けの座席に座って多くのカニ族と談笑、朝一番の連絡船で利尻や礼文に渡りました。昭和46年当時は、連絡船にはちっぽけな船、たぶん250トン程度の船でした。初めての船酔いも経験しました。二度目の昭和48年の2月では、500トン以上のフェリーが運航されており快適な船旅を経験しました。三度目は、昭和49年夏季に利尻山標高1779メートル(?)の山頂に上りました。海抜0メートルの集落から山頂まで、8時間かけてんの登山でした。頂上に着いたのは午後2時、そこでおにぎりを食べ下山、宿舎のユースホステルにの到着したのは、たぶん午後8時頃だと思います。大変貴重な経験でした。
@@文殊院陽光-h5j 様。数々の思い出話を有難うございます。楽しく拝見させて頂いております。わたくしが利尻島、礼文島に行ったのは昭和51年6月でした。この録音は利尻島から稚内に戻った日に、宿代わりに乗った列車です。利尻登山とはすごいですね。海抜0メートルから登れる山として人気があるそうですね。山頂で食べたおにぎりの味は格別だったことと思います。わたくしは登山をする根性はないので、貸自転車で利尻島一周がせいぜいでした。風が強くて難儀しました。またいつの日にか島を訪れたい……と思いつつも、鉄道に乗ることに没頭してゆき、訪れることはありませんでした。時折、テレビで見ることもありますが、淋しかった島の様子も、観光客が増え、当時とはかなり変わったことと思います。
これも懐かしい音声ですね、録音された昭和51年は私はまだ学生で実家も上富良野にありましたので、毎年夏休みを利用して夜行列車を乗り継ぎ道内のあちこちを巡り歩いていました。利尻には残念ながら乗客として乗ったことは無かったのですが14系化されてから、昼行の「宗谷」「天北」との共通運用でしたので宗谷として札幌~名寄間を乗った記憶があります。旧型客車時代の夜行利尻は国鉄に入社後3年目に名寄へ転勤になり当時はまだこの編成の通りの旧型客車で、真夜中に乗務員の交代も有りましたのでその合間を縫って客車内も見て回ったことがあり、特にこのオロハネ10型は夜行利尻と大雪にしか連結されていなかったので乗務員室まで行き車掌と世間話も交え自分の乗務区間の打ち合わせなどもしていました。特にこの利尻は厳冬期には煖房補機として後部にもDD51型を連結し列車の前後から暖房用の蒸気を送っていたのが懐かしく思えます。
車掌さんをやっていたのですね。プロの方の記憶、記録を乗せていただきありがとうございます。車掌さんの側からすれば、こんな風に放送を録音されるのは迷惑行為だったのでしょうね。
@@急行-宗谷 言い方が悪かったのかな車掌では無く機関士の方です。ただ名寄機関区時代は機関助手~機関士見習いまででしたから正式に機関士として乗務したのは分割民営化後のJR東日本へ転勤になってからになりますね。この当時は旅客・貨物とも機関車牽引の列車には機関士と助士または見習いが乗務していまして、主に途中の通過駅でのタブレットの受け渡しを担当していましたが、希にハンドルを握って運転をしていたこともありました。夜行利尻の客車内を歩き回ったのは私が単に子供の頃からの鉄道マニアで乗り鉄でもあったためで、列車の編成や重量などは別の用紙で始発駅で用意されて機関車の所定の場所に置いてありましたので、わざわざ見に行く必要は無かったのですがその日の旅客数によってブレーキなどの操作が微妙に違ってくるため、車内の様子を見て来る事については特に誰からも特に何も言われたことはありませんでした。当時の名寄は道北方面の中継点でまたオホーツク海側への乗り継ぎの要所でもありましたので鉄道関係の施設の殆どがありました。
現場の職員の体験談まで載せていただきありがとうございます。この音声のUPを機会に、お話を伺うことができて嬉しいです。
昔の記憶がよみがえりました。私自身この少し前の早春の時期に道内をめぐり急行利尻で稚内を訪れた経験があります。南稚内に近づくころ外が白み始めいよいよ終点かと期待と不安が高まったものです。長旅を慰めるようなハイケンスのオルゴールと車内放送が旅情を誘います。貴重な音源をありがとうございます。
夜行列車で迎える朝は印象深いものがありますね。そしてそれが最北の地稚内となれば、さらに感慨深かったことと思います。
コロナばかりの毎日で隠っていましたがふと北海道に行きたいな、と思っていたら懐かしい音声と時刻表の動画見つけました。この時代の貴重な音声、本当にありがとうございます。涙が出ました。私は昔の学割の北海道ワイド周遊券使って何度も北海道に行きました。当時はお金もないので飛行機どころか寝台車も乗れず、特急も別料金が必要だったのでもっぱら急行や鈍行列車でした。宗谷本線は特に名寄の先は鈍行列車でも楽しめました。今はなき天北線、羽幌線も絶景で飽きませんね。今は時代が変わって、逆にお金(=時間)がないと鈍行列車の旅が出来ないですがコロナが落ち着いたら足を運びたい、そんな気持ちにしていただきました。(本気です❗)
宗谷本線では昼間の普通列車で、車窓から天塩川の流れをのんびり眺めるのが、何よりの贅沢だと思っております。
やはり、座席、寝台混成って、味がありますね。いつも貴重な動画録音ありがとうございます。
自由席からA寝台までありますが、周遊券利用で別途料金がかからない自由席にばかり乗っていました。グリーン車やA寝台などは雲の上のように感じたものでした。
この当時の旭川は完全な24時間駅でしたね。他にも郡山、福島など。待合室は暖房完備で8月でも深夜は暖房ついてた記憶があります。
昔は夜行列車も多く、貨物もたくさん走っていましたから、幹線の鉄道は24時間稼働している感じでしたね。
@@急行-宗谷 そうですね。でも完全24時間って案外少なかったんですよ。高崎駅は1時間だけ、軽井沢にいたっては30分だけでも駅閉鎖してましたから。閉めるほうが手間かかったに違いないのに。
泊まる人がいるからでしょうね。
稚内に至急向かう用事があって、深夜の40号線を、前後すれ違いのクルマもなく、たった1台でクルマを走らせていた時、不意に真っ暗な原野の向こう側がほの明るくなり、やがて1列の光の帯とすれ違った。夜行の特急利尻だった。今から十五年以上前、咲来あたりでの話。人気のない原野に光を落としてゆっくり走り抜ける夜行列車は、それだけでも詩になる。
銀河鉄道か、はたまた狐火か・・・コメントを拝見するだけで、幻想的な情景が浮んできます。
コメントありがとうございます。道内を夜間に長距離移動することが多かったものですから、あとは急行まりもでも同じようなシーンを見ました。まりもの場合は上厚内辺りでしたね‥鬼火か狐火か‥まさに幻想的な光景でした。
やっぱりこの時代ですよね!四国の列車は昔から乗ってたけど、北海道はあまりないです。昔の函館発、宗谷行きとか網走行きの列車に乗ってみたかった。チャンネル登録しました!
昔の旅も良かったですが、現代の旅もいいものです。40年経てば「あの頃は良かった・・・」と思うでしょうね。わたくしは40年後にはこの世におりませんが・・・
10系客車の寝台の上段に乗ったことがありますが、ベッドの幅がとにかく狭く、さらに上段は確か天井が丸くなっていて圧迫感があったことを覚えています。落下防止ベルトがありましたが怖かったですね😂何しろ古い記憶ですが、今回も国鉄を回想できて嬉しいです。本当に懐かしいなぁ。素晴らしい編集の動画ありがとうございます。いつも楽しみにしています。
客車3段寝台!一度でいいから乗ってみたかった!!です。
途中やかましゅうございますからと言って、もう一度停車駅を復唱するとこ好き。
深夜の放送中断に格段の配慮をしている感じですね。
普段の乗車率がどのくらいだったのか今となっては知る術もありませんが、合造車とは言えA寝台と、そしてグリーン車を連結していたあたりが優等列車としての矜持ですね。オロハネ10やスロ52・54に乗ってみたかったなあ。優等の車掌さんらしく格調高い放送ですが、途中「あさひかわ」と「あさひがわ」が混在するなどいろいろ興味深いです。
急行利尻に旧客と14系両方乗車した事があります。この車内放送の2年後に乗車し稚内発21:00と言うのも記憶にございます。稚内から乗ったり、旭川から乗り込んだ時もあり、神居トンネルでは電気機関車のスパ-クでトンネル内が何度も青光りしたのを最後尾に座り込み眺めていたのを思い出しました。この当時は急行利尻51号札幌行きが存在したのですね。自分が乗った時は利尻51号は札幌発稚内行きしかありませんでした。今はなき札幌0番ホ-ムにキハ58が3両編成でグリ-ン車の連結は無く、稚内到着が定期急行利尻より早いため車内は混雑していました。『明朝』と言う言葉の響きが、夜汽車の旅情をより一層高めますね。
24時間営業のコンビニなどなかった時代、午前3時に旭川で弁当が買えることに驚きです。
世の中に余裕があった時代今は行き過ぎた効率厨が多すぎる
高音質の音声データと分かりやすい時刻表画像との合わせ技をいつも楽しみにしています。今回の急行利尻、夜中の3時到着の旭川で弁当の販売がある、という放送に驚くやら感心するやらで、コンビニが発達していない時代ならではだなぁ、と感じました
昔は深夜でも駅弁を売っている駅が結構あったようですね。夜行列車が何本もありましたからね。
大垣夜行も静岡での駅弁販売がお楽しみでしたが、ムーンライトになった頃に終了してしまいました
宗谷はもう10年以上前に札幌から乗りました ただただ稚内に行ってみたいというだけだったのですが。稚内は戦前はここで終わりではなく、航路で戦前の日本の領土だった樺太まで行っていて実際の駅も風防ドームのところまでだっだんですよね。敗戦という歴史の反省はありますが、その先に日本の領土があったのだというのは想像すると楽しかったです。
防波堤ドームを歩くと、戦前に樺太へ渡って行った人たちはどんな思いだったのだろう・・・と想像を巡らせることができますね。
前と同じ感想になりますが、こういった録音を残されていたというのは凄いことですね叶わぬことですが、この当時の時刻表と列車で旅してみたいですおすすめに上がってきて登録させてもらった時は600人くらいでしたが、はや2000人超え、納得です
視聴者が急に増えたのは、RUclips側が勝手にCMを入れて、収入を得るために広めたのが要因と思います。興味がない人のところにまで「おすすめ」で届くようになってしまい、「低評価」の数も増えています。
時間を合わせる為でしょうけど、旭川から札幌までかなりノロノロ走るんですね…!貴重な録音をありがとうございます!!
こんにちは。今度はオロハネ10連結時代の夜行急行利尻の貴重な音源ですね。ありがとうございます。最初の車掌長さん「クルマ6両連結」の件は、単なる言い間違いだと思います。旭川駅で8号車を連結するのを勘違いされたのかと推察します。私自身が夜行急行利尻に乗車したのは1984年12月某日の14系客車時代で、騒音対策でエンジン付き緩急車オハフ14を避けて、自由席のオハ14に乗車するのを目指して稚内駅待合室で暫く並びましたので、エンジン音はほぼ聞こえず心地良いレールのジョイント音で、抜海通過も知らずに江別辺りまで夢の中でした。録音当時のオロハネ10というA寝台B寝台合造車。学生時代の鉄道研究会後輩が同車両好きでNゲージ模型で触らせて貰いましたが、中央部に出入口と車掌室(実際に控えていたのは車掌補と言われた寝台設置要員、腕章には“BOY”と英文あったはずで、電報の取り扱いなど特別な要件を依頼した時には少々チップを渡すのが約束事)が常駐していて、両寝台利用客は色々と格差を感じたでしょうね。冷房設備工事前はナロハネ10という名称で、A寝台は1等寝台Cという3等級時代の古い旧2等寝台扱いだったようです。冷房設備が無かったせいでしょうか?懐かしい音源、別の音源がございましたら随時アップロードをお願いいたします。道内時刻表が写るので、列車の状況がわかりやすく動画視聴に最適です。
わたくしの録音は失敗ばかりですが、まあまあの部分を探しながら少しづつUPしていきます。変わり映えしない画像で飽きがくると思いますが・・・
車掌さんの「毎度 ご乗車ありがとうございます」の案内が 時を経て「毎度 ご利用ありがとうございます」に変わった時点で 列車は「乗り物・旅」から「単なる移動手段」に変わってしまったのですね。。。
目的があって乗る鉄道は「文明」。楽しみで乗るなら「文化」・・・少し違っているかもしれませんが、故宮脇俊三さんが、そんなような意味のことを書かれていましたね。
懐かしいです。昭和54年の夏、札幌から稚内までオロハネ16に乗り、途中音威子府で朝靄の中、ホームから狐か狸が見えたのを覚えています。ありがとうございます。
当時は混雑を避け、かつ周遊券が2割引きになる季節にしか行ったことがありませんでした。夏の北海道は夜明けも早く、寝台車で迎えた朝の車窓は特に印象深かったことと思います。懐かしさを感じて頂けて何よりです。
2:14「途中やかましゅうございますから」この丁寧語がイイっす!読み物である時刻表を見つつの時を超えた旅気分、最高ですね!こういう列車の自由席って、ビールよりワンカップが似合います。
ワンカップいいですねぇ。でも多分4合瓶買っちゃうと思います。
@@急行-宗谷 (笑)
全ての動画から国鉄のいい時代北海道の数多くの路線を思い出します。
お久しぶりです。この区間の駅は、かなりの数、廃駅になりましたね。特に、旭川より北は今年の3月に減りましたね。旭川まで、弁当等も購入できないと、稚内で購入したのでしょうね。線路の「ガタゴト」とう音で、大体の速度が分かりますが今と比べるとのどかに走っていますね。6月だと、一番日が長いので、夜明けも4時前だったので、すぐに朝になったという感じでしょうかね。いつも、ありがとうございます。
稚内で乗車前に夕食を済ませれば、札幌まで補給なして行けたと記憶しています。今のわたくしなら、暗闇に流れる小さな明かりを肴に、チビリ、チビリとやりたいところですが、録音当時は20代前半で、あまり飲まなかったので、おやすみ放送を録った後はひたすら寝ていました。
旭川停車中に東の空が明るくなってきますね
私の場合、1988年に片道ずつ急行❲天北❳、❲宗谷❳で稚内まで到達した旅行を思い出しました。それより10年前にはもっとディープ(!)な列車があったのですね。いまや、宗谷本線自体がピンチ😵💦になるなんて当時は誰が予想したでしょう。時代って本当に変わるものだなぁと、つくづく感じました😉
宗谷本線も先行きが不安で、健在なうちに1回でも多く乗っておきたいのですが、コロナで旅行自粛中です。
素晴らしい!この時代の夜行列車、深夜の旭川駅で駅弁販売なんてありがたい(涙)たしか音威子府駅の駅そばも当時駅ホームにあって夜行列車に合わせてそばの販売をしていたはず。
旭川での深夜の立ち売りも懐かしいです。音威子府の蕎麦屋さんも駅舎で営業していましたが、閉店してしまいましたね。淋しい限りです。
すごいなあー「途中やかましゅうございますから」の言い回しが良いですね(笑)
列車の放送ではあまり聞かないですね。上品な日本旅館で聞きそうな感じです。
「あぶのうございます」って危ないですからの意味ですがそんな優しい日本語が多々ありましたよね…
急行利尻、急行大雪が旭川で当時深夜乗換えができた。網走深夜発で旭川乗り換えで早朝稚内到着した記憶。臨時利尻51号が帆延で定期急行を追い抜くのが面白い
B寝台イラストの、上・中・下を、松・竹・梅にすれば表現が柔らかくなるかも(^^; 幅52㎝でも落っこちる人は見たことありませんでした。AB合造車も貴重な車両でした。
旧型客車のB寝台は窮屈だった記憶があります。4人掛けの座席を1人で使えるなら、自由席の方がラクだった気がします。友人と二人、これをC寝台と呼んでいました。
’98年、旭岳と利尻岳をはしご登山をした時、旭川から稚内まで乗車しました。懐かしいです。
うわっ。登山とはすごい。わたくしは貸自転車で利尻島一周がせいぜいでした。
30年ほど前、抜海駅で駅寝をして朝ホームに出て伸びをしていたら、下りの利尻が通過していきました。14系だったと思います。
抜海駅といえば貝殻を張り付けた駅名板を思い出します。
こういう夜行列車に乗りたいですね。しかも急行というのが最高!
急行が次々に特急に格上げされて姿を消していく中、宗谷本線の急行は最後の方まで残りましたね。
10系客車や旧型客車のグリーン車は旅に出られる年齢になった時には既に淘汰済で乗れませんでした一度乗ってみたかったです高1で初めて北海道に行った時、宗谷本線で唯一乗った急行はキハ54の礼文14系だった利尻や天北は時間が合わず未乗です
天北線も名寄本線もまだ有った時代…51年は生まれてないけど何故か懐かしい…
廃止になった列車や路線に思いを馳せ、懐かしさを感じて頂ければ何よりです。
私はわからないA寝台車、グリーン車付きの利尻号の車内放送は貴重な資料と思います。夜中に旭川駅で弁当を販売しているとはすごいですね。鉄道利用があったからでしょう。情緒ある放送と思います。以上です。
当時は周遊券の旅で、乗るのは自由席ばかり。A寝台やグリーン車は雲の上の存在でした。客車の揺れに身を委ねて眠っていても、停車の感覚でふと目が覚め、「どこかな?」と車窓を見ると旭川。ホームの照明が眩しく、賑やかに行き交うお弁当や飲み物の立ち売り・・・そんな光景が印象的です。
地図には今はもう無くなってしまった路線図もありましたね❗懐かしい👍
羽幌線、天北線・・・など、路線名を放送してくれて嬉しかったです。
貴重です。懐かしいです。
思いがけず「貴重」「懐かしい」そんなお言葉をたくさん頂戴し、嬉しいです。
利尻乗りたかったなぁ…末期には頑張れば乗れたのに、もうちょい本気でバイトしてれば…若者たちは今乗りたい列車、多少無理してでも乗っとくべきよ…。まあコロナだから難しい面もあるかも知れないけど。
「あの列車が存続しているうちに乗っておけば良かった・・・」と思うのは今も昔も同じですね。日常的に走っている列車が、いつの日かなくなってしまう・・・などとは思わないものですから・・・
路線図が、複線区間がわかるようになってる、、、懐かしい。
録音も貴重ですが、、、路線図が。。。。魚の小骨を取り除いて、さらに大きな骨も取り除いて。。。背骨のみが残っている感じですね、、、
この当時に比べて、今の路線図はすっかりさびしくなってしまいましたね。
@@急行-宗谷 さん大都市並みに主要駅で分岐していた路線が無くなり、残った1本の宗谷本線も廃止を否定しきれない状況。鉄道は、マイカーが使いにくい都会で人が超たくさん乗る、貨物の大量輸送、新幹線での高速輸送でしか成立しなくなっていますね。
オロハネ10に時代を感じる。変わった寝台車なので1両残して欲しかった。
停車駅は江別が入ってるくらいで現在の特急とほぼ同じですね。
急行と特急の違いは、停車駅や速度だと思っていましたが、いつの頃からか車両の違いになってしまった感じですね。
そのうち、名寄より北の路線も廃止になるのでしょうね…。何とか、北海道の鉄路を守る、良い方法は無いのでしょうか…。
天塩川沿いの線路が自然災害で甚大な被害を受けたら・・・などと考えると、今のうちに乗っておかねば・・・と思います。その前にコロナが収まってほしいものです。
実際、乗って数字をあげるしかないかと。付随して物販、通販…JR北と東の動向がきな臭い以上、ギャフンと言う収入が無いとな。
でも、現実厳しいですよね。いつの間にか札幌交通圏以外は『乗ってください』のダイヤから『アリバイの』運行に変わり駅前も廃れ。車輌延命で札幌ー旭川以遠は乗り換えってどういう事?ツインクルプラザも廃止だし。
大黒字のJR東海か東日本が吸収するしかないですね。
オロハネ10型500番台は北海道仕様ですが、本州仕様の車両は急行さんべが最後でした。A寝台はエアサスではありませんでしたが、乗りたかったです。ちなみにオロネ10型は乗車経験があります。利尻には何度も乗った経験があります。いずれも北海道ワイド周遊券なので普通車自由席でした。旧型客車のほうが114系よりも眠れた記憶があります。簡易リクライニングシートは夜行には向かないです。
わたしは閑散期にばかり旅行していましたので、夜行列車では4人掛けボックス席を1人で使えてラクでした。
私は若い頃陸上自衛隊名寄駐屯地に3年9か月間訓練に従事していましたが年末年始休暇で内地に帰る際は必ず利用していたのを思い出しました!
寒冷地での訓練は大変だったことと思います。それだけに休暇で帰る時は楽しみで、印象深かったことと思います。ご苦労様でした。
客車時代の利尻は、乗ること叶いませんでした。味がある案内ですね。特急時代にB寝台に乗ったことありますが、『特急利尻でございます』の案内に旅の気分が高まったのを覚えてます。
寝台車に乗った時のワクワク感は何とも言えないものがありましたね。
旭川で降りる人っていたんでしょうか?降りるとしたら起こしてくれるんでしょうか?ギシギシという音がいい味を出していますね。
ジーゼル(DD51)より更に前のころ、C55牽引で、抜海の辺り遥か沖合に利尻富士が見える姿は、さぞかし絶景であったろうなぁ。多客時には客車も増結されて、重連で越えていくのは、南のC55と共に良い被写体だったろう。
C55牽引の頃は乗ったことがなく、写真で見るだけでした。夜汽車に揺られ、暗闇の中に時折聞こえてくる蒸気機関車の汽笛・・・そんな雰囲気を味わってみたかったです。
コロナウィルスに負けるな!車に負けるな!頑張れ!宗谷本線!大阪から応援しております。宗谷本線乗りたい!
宗谷本線は、途中から分岐する支線が全てなくなってしまい、枝を切られ、幹だけが残った樹木のようですが、それだけに頑張ってほしいものですね。
寝てても移動できるなんて素晴らしすぎる😭夜行列車がまだあったら飛行機は使わないかもしれない。。。
夜間の移動としては、都市間を結ぶバスが各地にありますが、やはり夜行列車は独特の味わいでした。単に移動の手段としてだけでなく、乗ること自体を楽しめました。
いつも楽しみにしているのですが、見る度に気になる旭川をあさひ「が」わと濁る言い方をするのは何か訳があるのでしょうか?
横から失礼します。元々の駅名の読み方が「あさひがわ」駅だったんですよーいつだか、市名にあわせて「あさひかわ」駅に変えました
@@晋太郎三谷 あーなるほど。たまにある自治体名の読みと駅名の読みが一致しないパターンだったんですね。
1:55 の時刻表でもわかるように、1988年以前は「旭川」駅は「あさひがわ」が正式の読み方だったのに、この車掌さんはどう聞いても「あさひかわ」と発音してるのが謎。
1:55 では「あさひがわを出ますと」と言ってるようにも聞こえるけど、1:28とかは「あさひかわ」って言ってる。
@@alfayoko もしかしたら、旭川出身の車掌なのかもしれませんね。駅名が「あさひがわ」だっただけで、地元ではずっと「あさひかわ」呼びだったはずです。
な~るほど。納得のいく推察ですね。
@@急行-宗谷 五十嵐広三・元旭川市長(社会党)が、村山内閣の官房長官に就任した時の記者会見で「私は"あさひがわ"の市長を12年経験しまして…」と述べたのを聞いた記憶があるので、地元の人でも古い人は「あさひがわ」読みをする人も一定いるのではとも考えられます。
当時の夏は、本州から北海道へ鉄道と青函連絡船で旅する人が多かったようだ。自分はまだ小学生で時刻表で予定を組むだけ事しかできなかった。それでも札幌を発着する夜行急行は、「利尻」だけでなく「狩勝」「大雪」「すずらん」と4本ありそれぞれ個性があったようだ。「利尻」は下りで稚内へ向かう車窓途中、朝日が昇ったサロベツ原野を見渡し、さらに列車名のごとく利尻、礼文島へフェリーで、というのを空想しながら、いつかは乗りたいと思っていたが、時代の流れは速く、大学生になったときは千歳空港に駅が出来、「すずらん」は廃止、「利尻」を含めたほかの列車は一般客車から14系化されて、さらにJRになってからさらに省力化されてしまい、現在では夜行列車そのものが無くなり、北海道へ渡るというブームも落ち着いてしまった。
北海道の夜行列車はスゲー懐かしい😢⤵️⤵️路線リストラを思えばかなり無惨悲劇よ😢⤵️⤵️
10系寝台、A寝台は乗ったけど、客車列車のグリーン車には…乗りたかったな😊
深夜2時過ぎでも旭川27分停車中に駅弁買えたのか? 深夜販売?
旭川で深夜の駅弁販売、やってましたね。1990年代初頭まであったような気がします。懐かしいですね。
時間的にあるわけないと分かっていても、羽幌線、天北線、美幸線、名寄線、深名線への乗り継ぎは翌朝までありませんとわざわざアナウンスしてたんだなぁ。
本州なら「連絡列車はありません」で終わりますが、北海道では「明朝の連絡です」という案内が多かったような印象です。
稚内から札幌へ。急行利尻は9時間をかけて走りました。道内を寝台列車が走っていたなんて、今では考えられないですよね。昔の北海道。国鉄が縦横無尽に北の大地を巡っていました。ニシンで栄えた羽幌線。帆立の猿払は天北線。石炭を満載して走ったのは夕張線。ニシンに石炭は北海道を代表する産物であり、国鉄貨物の全盛期。やがて、ニシンも石炭も採れなくなり、同時に鉄道が衰退の一途に。天北線が元気だった!羽幌線が元気だった!深名線が元気だった!広尾線が元気だった!標津線が元気だった!挙げたらキリがない。北海道の鉄道が元気だった頃の、古き佳き時代が本当に懐かしい
ほんと、昔は鉄道が元気でしたね。そんな遠い昔を思い出し、懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
旭川を「あさひがわ」と放送してますね国鉄の時代はわからないけど、今との違いで国鉄を感じるなら、20代の我々にはそれしかない…
「夜汽車」という情景...人生ってなんだろう。
日常の生活に疲れ、ふと、全てを捨てて、夜汽車に揺られる旅人になってみたい・・・そんな気持ちになったこともありました。まあ、そうはならずに普通に生活し、静かに年老いておりますが・・・
よつば3.4牛乳 懐かしい 黄色の三角パックだね
夜汽車に乗って旅行したいな。座席車だと疲れるから寝台車が良いな。ちょいと奮発してA寝台車に乗れれば最高だ。
全国に当たり前のようにあった夜行列車も今ではサンライズのみ・・・こんな時代になろうとは・・・。もっと乗っておけば良かったと思います。今にして思えば、確かに座席より寝台で・・・
AB寝台の時代だね。当時 稚内・南稚内駅にキオスクがその時間まで営業していた。旭川駅で 深夜駅弁の販売があった。蘭留ー和寒間で補機の連結があった。
ABの寝台合造車ってどんなかんじなんだろ? 乗ってみたかった
夏場 特に下りは満員だった。利礼航路の運行状況の放送もあった。臨時利尻51号もあった
まだ名寄本線や羽幌線、深名線などの今は亡き路線が網の目のように張り巡らされていた時代ですね。
車掌さんのなんだか落ち着く声とガタンゴトンという音、深夜の時刻が書かれた時刻表も相まって旅愁を誘われました。
僕は21世紀生まれなので北海道に夜行列車や大量の鉄道路線があった時代を知らないのですが、もしタイムスリップできるなら行ってみたいとずっと思ってます...
貴重な録音ありがとうございます。先日特急宗谷に乗りましたが、多分同じ停車駅ですね。
音威子府駅から学生らしい方が沢山乗車されました。宗谷本線まだまだ頑張って欲しいです。
同感です。宗谷本線が地震や台風などの自然災害で、甚大な危害に逢わないように祈るばかりです。
この頃の利尻は知りませんが、旅行気分にさせてくれます。国鉄時代にタイムスリップ。
貴重な録音ありがとうございます。
レコーダーを窓際のテーブルに乗せて録音したため、窓が震える音を拾ってしまいましたが、それも味のうち・・・ということで・・・
急行宗谷様 利尻の車内放送、やっぱり今日もまた聞きました。本当に昭和40年代(1970年代)を思い出します。何度聞いてもいいですね。当時の旭川駅は24時間汽車が発着していました。何度も駅構内で寝袋で寝ていました。若いね!当時は18歳。
私も学生時代、北海道ワイド周遊券で宿がわりによく乗車しました。ほんと懐かしい。車内の風景まで浮かんできます。
国鉄マンの誇りがこもっている様な、多分ベテラン車掌さんの、素晴らしく美しい日本語のアナウンスに、聞き惚れます。
今もご健在なら、現在の北海道の鉄道の姿を見て、どの様な思いをされているでしょうねえ。
何本かの列車の放送をUPしながら、わたくしも「この時の車掌さんは今どうしているだろう・・・」といつも思います。
客車のコトンコトンをBGMに、アナウンスに合わせて路線図と時刻表が掲示される画面、同乗している気持になります。ありがとうございました!
ほんの少しでも汽車旅の気分を感じて頂けたら嬉しいです。
北海道周遊券で、夜行急行自由席を使いまくった旅行を学生時代にしました。利尻、懐かしいです。途中やかましゅうございますから、って自虐ぶりも良いです。
周遊券愛用者にとって、道内の夜行急行はお馴染みでしたね。
上野からあけぼので青森へ、青森からはまなすで札幌へ、札幌から利尻で稚内へ。
今では考えられない贅沢な夜行列車の旅をしました。
貴重なる録音、その一言です。昭和46年夏8月のひとつ期間周遊、さらに昭和47年2月から3月までの二か月間周遊、楽しい汽車の旅をしました。それを彷彿させる録音です。感謝!!
感謝のお言葉ありがとうございます。昔の旅を思い出して頂けて何よりです。
@@急行-宗谷 様 訂正します。二度目の旅行は昭和48年の2月から3月末までの2か月間でした。
私は、上り列車の利尻には乗ったことがありません。しまし、下りの利尻には複数回乗車しています。このような車掌のアナウンスが聞け思い出いっぱいです。
列車では、四人掛けの座席に座って多くのカニ族と談笑、朝一番の連絡船で利尻や礼文に渡りました。昭和46年当時は、連絡船にはちっぽけな船、たぶん250トン程度の船でした。初めての船酔いも経験しました。
二度目の昭和48年の2月では、500トン以上のフェリーが運航されており快適な船旅を経験しました。
三度目は、昭和49年夏季に利尻山標高1779メートル(?)の山頂に上りました。海抜0メートルの集落から山頂まで、8時間かけてんの登山でした。頂上に着いたのは午後2時、そこでおにぎりを食べ下山、宿舎のユースホステルにの到着したのは、たぶん午後8時頃だと思います。大変貴重な経験でした。
@@文殊院陽光-h5j 様。数々の思い出話を有難うございます。楽しく拝見させて頂いております。
わたくしが利尻島、礼文島に行ったのは昭和51年6月でした。この録音は利尻島から稚内に戻った日に、宿代わりに乗った列車です。
利尻登山とはすごいですね。海抜0メートルから登れる山として人気があるそうですね。山頂で食べたおにぎりの味は格別だったことと思います。わたくしは登山をする根性はないので、貸自転車で利尻島一周がせいぜいでした。風が強くて難儀しました。
またいつの日にか島を訪れたい……と思いつつも、鉄道に乗ることに没頭してゆき、訪れることはありませんでした。時折、テレビで見ることもありますが、淋しかった島の様子も、観光客が増え、当時とはかなり変わったことと思います。
これも懐かしい音声ですね、録音された昭和51年は私はまだ学生で実家も上富良野にありましたので、毎年夏休みを利用して夜行列車を乗り継ぎ道内のあちこちを巡り歩いていました。
利尻には残念ながら乗客として乗ったことは無かったのですが14系化されてから、昼行の「宗谷」「天北」との共通運用でしたので宗谷として札幌~名寄間を乗った記憶があります。
旧型客車時代の夜行利尻は国鉄に入社後3年目に名寄へ転勤になり当時はまだこの編成の通りの旧型客車で、真夜中に乗務員の交代も有りましたのでその合間を縫って客車内も見て回ったことがあり、特にこのオロハネ10型は夜行利尻と大雪にしか連結されていなかったので乗務員室まで行き車掌と世間話も交え自分の乗務区間の打ち合わせなどもしていました。
特にこの利尻は厳冬期には煖房補機として後部にもDD51型を連結し列車の前後から暖房用の蒸気を送っていたのが懐かしく思えます。
車掌さんをやっていたのですね。プロの方の記憶、記録を乗せていただきありがとうございます。
車掌さんの側からすれば、こんな風に放送を録音されるのは迷惑行為だったのでしょうね。
@@急行-宗谷 言い方が悪かったのかな車掌では無く機関士の方です。
ただ名寄機関区時代は機関助手~機関士見習いまででしたから正式に機関士として乗務したのは分割民営化後のJR東日本へ転勤になってからになりますね。
この当時は旅客・貨物とも機関車牽引の列車には機関士と助士または見習いが乗務していまして、主に途中の通過駅でのタブレットの受け渡しを担当していましたが、希にハンドルを握って運転をしていたこともありました。
夜行利尻の客車内を歩き回ったのは私が単に子供の頃からの鉄道マニアで乗り鉄でもあったためで、列車の編成や重量などは別の用紙で始発駅で用意されて機関車の所定の場所に置いてありましたので、わざわざ見に行く必要は無かったのですがその日の旅客数によってブレーキなどの操作が微妙に違ってくるため、車内の様子を見て来る事については特に誰からも特に何も言われたことはありませんでした。
当時の名寄は道北方面の中継点でまたオホーツク海側への乗り継ぎの要所でもありましたので鉄道関係の施設の殆どがありました。
現場の職員の体験談まで載せていただきありがとうございます。この音声のUPを機会に、お話を伺うことができて嬉しいです。
昔の記憶がよみがえりました。私自身この少し前の早春の時期に道内をめぐり急行利尻で稚内を訪れた経験があります。南稚内に近づくころ外が白み始めいよいよ終点かと期待と不安が高まったものです。長旅を慰めるようなハイケンスのオルゴールと車内放送が旅情を誘います。貴重な音源をありがとうございます。
夜行列車で迎える朝は印象深いものがありますね。
そしてそれが最北の地稚内となれば、さらに感慨深かったことと思います。
コロナばかりの毎日で隠っていましたがふと北海道に行きたいな、と思っていたら懐かしい音声と時刻表の動画見つけました。この時代の貴重な音声、本当にありがとうございます。涙が出ました。私は昔の学割の北海道ワイド周遊券使って何度も北海道に行きました。当時はお金もないので飛行機どころか寝台車も乗れず、特急も別料金が必要だったのでもっぱら急行や鈍行列車でした。宗谷本線は特に名寄の先は鈍行列車でも楽しめました。今はなき天北線、羽幌線も絶景で飽きませんね。今は時代が変わって、逆にお金(=時間)がないと鈍行列車の旅が出来ないですがコロナが落ち着いたら足を運びたい、そんな気持ちにしていただきました。(本気です❗)
宗谷本線では昼間の普通列車で、車窓から天塩川の流れをのんびり眺めるのが、何よりの贅沢だと思っております。
やはり、座席、寝台混成って、味がありますね。いつも貴重な動画録音ありがとうございます。
自由席からA寝台までありますが、周遊券利用で別途料金がかからない自由席にばかり乗っていました。
グリーン車やA寝台などは雲の上のように感じたものでした。
この当時の旭川は完全な24時間駅でしたね。他にも郡山、福島など。待合室は暖房完備で8月でも深夜は暖房ついてた記憶があります。
昔は夜行列車も多く、貨物もたくさん走っていましたから、幹線の鉄道は24時間稼働している感じでしたね。
@@急行-宗谷 そうですね。でも完全24時間って案外少なかったんですよ。高崎駅は1時間だけ、軽井沢にいたっては30分だけでも駅閉鎖してましたから。閉めるほうが手間かかったに違いないのに。
泊まる人がいるからでしょうね。
稚内に至急向かう用事があって、深夜の40号線を、前後すれ違いのクルマもなく、たった1台でクルマを走らせていた時、不意に真っ暗な原野の向こう側がほの明るくなり、やがて1列の光の帯とすれ違った。夜行の特急利尻だった。今から十五年以上前、咲来あたりでの話。人気のない原野に光を落としてゆっくり走り抜ける夜行列車は、それだけでも詩になる。
銀河鉄道か、はたまた狐火か・・・コメントを拝見するだけで、幻想的な情景が浮んできます。
コメントありがとうございます。道内を夜間に長距離移動することが多かったものですから、あとは急行まりもでも同じようなシーンを見ました。まりもの場合は上厚内辺りでしたね‥鬼火か狐火か‥まさに幻想的な光景でした。
やっぱりこの時代ですよね!
四国の列車は昔から乗ってたけど、北海道はあまりないです。
昔の函館発、宗谷行きとか網走行きの列車に乗ってみたかった。
チャンネル登録しました!
昔の旅も良かったですが、現代の旅もいいものです。40年経てば「あの頃は良かった・・・」と思うでしょうね。わたくしは40年後にはこの世におりませんが・・・
10系客車の寝台の上段に乗ったことがありますが、ベッドの幅がとにかく狭く、さらに上段は確か天井が丸くなっていて圧迫感があったことを覚えています。
落下防止ベルトがありましたが怖かったですね😂何しろ古い記憶ですが、今回も国鉄を回想できて嬉しいです。本当に懐かしいなぁ。
素晴らしい編集の動画ありがとうございます。
いつも楽しみにしています。
客車3段寝台!一度でいいから乗ってみたかった!!です。
途中やかましゅうございますからと言って、もう一度停車駅を復唱するとこ好き。
深夜の放送中断に格段の配慮をしている感じですね。
普段の乗車率がどのくらいだったのか今となっては知る術もありませんが、
合造車とは言えA寝台と、そしてグリーン車を連結していたあたりが優等列車としての矜持ですね。
オロハネ10やスロ52・54に乗ってみたかったなあ。
優等の車掌さんらしく格調高い放送ですが、途中「あさひかわ」と「あさひがわ」が混在するなどいろいろ興味深いです。
急行利尻に旧客と14系両方乗車した事があります。この車内放送の2年後に乗車し稚内発21:00と言うのも記憶にございます。
稚内から乗ったり、旭川から乗り込んだ時もあり、神居トンネルでは電気機関車のスパ-クでトンネル内が何度も青光りしたのを最後尾に座り込み眺めていたのを思い出しました。
この当時は急行利尻51号札幌行きが存在したのですね。自分が乗った時は利尻51号は札幌発稚内行きしかありませんでした。
今はなき札幌0番ホ-ムにキハ58が3両編成でグリ-ン車の連結は無く、稚内到着が定期急行利尻より早いため車内は混雑していました。
『明朝』と言う言葉の響きが、夜汽車の旅情をより一層高めますね。
24時間営業のコンビニなどなかった時代、午前3時に旭川で弁当が買えることに驚きです。
世の中に余裕があった時代
今は行き過ぎた効率厨が多すぎる
高音質の音声データと分かりやすい時刻表画像との合わせ技をいつも楽しみにしています。
今回の急行利尻、夜中の3時到着の旭川で弁当の販売がある、という放送に驚くやら感心するやらで、コンビニが発達していない時代ならではだなぁ、と感じました
昔は深夜でも駅弁を売っている駅が結構あったようですね。夜行列車が何本もありましたからね。
大垣夜行も静岡での駅弁販売がお楽しみでしたが、ムーンライトになった頃に終了してしまいました
宗谷はもう10年以上前に札幌から乗りました ただただ稚内に行ってみたいというだけだったのですが。
稚内は戦前はここで終わりではなく、航路で戦前の日本の領土だった樺太まで行っていて実際の駅も風防ドームのところまでだっだんですよね。敗戦という歴史の反省はありますが、その先に日本の領土があったのだというのは想像すると楽しかったです。
防波堤ドームを歩くと、戦前に樺太へ渡って行った人たちはどんな思いだったのだろう・・・と想像を巡らせることができますね。
前と同じ感想になりますが、こういった録音を残されていたというのは凄いことですね
叶わぬことですが、この当時の時刻表と列車で旅してみたいです
おすすめに上がってきて登録させてもらった時は600人くらいでしたが、はや2000人超え、納得です
視聴者が急に増えたのは、RUclips側が勝手にCMを入れて、収入を得るために広めたのが要因と思います。
興味がない人のところにまで「おすすめ」で届くようになってしまい、「低評価」の数も増えています。
時間を合わせる為でしょうけど、旭川から札幌までかなりノロノロ走るんですね…!
貴重な録音をありがとうございます!!
こんにちは。今度はオロハネ10連結時代の夜行急行利尻の貴重な音源ですね。ありがとうございます。
最初の車掌長さん「クルマ6両連結」の件は、単なる言い間違いだと思います。旭川駅で8号車を連結するのを勘違いされたのかと推察します。
私自身が夜行急行利尻に乗車したのは1984年12月某日の14系客車時代で、騒音対策でエンジン付き緩急車オハフ14を避けて、自由席のオハ14に乗車するのを目指して稚内駅待合室で暫く並びましたので、エンジン音はほぼ聞こえず心地良いレールのジョイント音で、抜海通過も知らずに江別辺りまで夢の中でした。
録音当時のオロハネ10というA寝台B寝台合造車。学生時代の鉄道研究会後輩が同車両好きでNゲージ模型で触らせて貰いましたが、中央部に出入口と車掌室(実際に控えていたのは車掌補と言われた寝台設置要員、腕章には“BOY”と英文あったはずで、電報の取り扱いなど特別な要件を依頼した時には少々チップを渡すのが約束事)が常駐していて、両寝台利用客は色々と格差を感じたでしょうね。冷房設備工事前はナロハネ10という名称で、A寝台は1等寝台Cという3等級時代の古い旧2等寝台扱いだったようです。冷房設備が無かったせいでしょうか?
懐かしい音源、別の音源がございましたら随時アップロードをお願いいたします。道内時刻表が写るので、列車の状況がわかりやすく動画視聴に最適です。
わたくしの録音は失敗ばかりですが、まあまあの部分を探しながら少しづつUPしていきます。変わり映えしない画像で飽きがくると思いますが・・・
車掌さんの「毎度 ご乗車ありがとうございます」の案内が 時を経て「毎度 ご利用ありがとうございます」に変わった時点で 列車は「乗り物・旅」から「単なる移動手段」に変わってしまったのですね。。。
目的があって乗る鉄道は「文明」。楽しみで乗るなら「文化」・・・少し違っているかもしれませんが、故宮脇俊三さんが、そんなような意味のことを書かれていましたね。
懐かしいです。昭和54年の夏、札幌から稚内までオロハネ16に乗り、途中音威子府で朝靄の中、ホームから狐か狸が見えたのを覚えています。ありがとうございます。
当時は混雑を避け、かつ周遊券が2割引きになる季節にしか行ったことがありませんでした。
夏の北海道は夜明けも早く、寝台車で迎えた朝の車窓は特に印象深かったことと思います。
懐かしさを感じて頂けて何よりです。
2:14「途中やかましゅうございますから」この丁寧語がイイっす!
読み物である時刻表を見つつの時を超えた旅気分、最高ですね!
こういう列車の自由席って、ビールよりワンカップが似合います。
ワンカップいいですねぇ。でも多分4合瓶買っちゃうと思います。
@@急行-宗谷 (笑)
全ての動画から国鉄のいい時代北海道の数多くの路線を思い出します。
お久しぶりです。この区間の駅は、かなりの数、廃駅になりましたね。特に、旭川より北は今年の3月に減りましたね。旭川まで、弁当等も購入できないと、稚内で購入したのでしょうね。線路の「ガタゴト」とう音で、大体の速度が分かりますが今と比べるとのどかに走っていますね。6月だと、一番日が長いので、夜明けも4時前だったので、すぐに朝になったという感じでしょうかね。
いつも、ありがとうございます。
稚内で乗車前に夕食を済ませれば、札幌まで補給なして行けたと記憶しています。
今のわたくしなら、暗闇に流れる小さな明かりを肴に、チビリ、チビリとやりたいところですが、録音当時は20代前半で、あまり飲まなかったので、おやすみ放送を録った後はひたすら寝ていました。
旭川停車中に東の空が明るくなってきますね
私の場合、1988年に片道ずつ急行❲天北❳、❲宗谷❳で稚内まで到達した旅行を思い出しました。それより10年前にはもっとディープ(!)な列車があったのですね。いまや、宗谷本線自体がピンチ😵💦になるなんて当時は誰が予想したでしょう。時代って本当に変わるものだなぁと、つくづく感じました😉
宗谷本線も先行きが不安で、健在なうちに1回でも多く乗っておきたいのですが、コロナで旅行自粛中です。
素晴らしい!この時代の夜行列車、深夜の旭川駅で駅弁販売なんてありがたい(涙)たしか音威子府駅の駅そばも当時駅ホームにあって夜行列車に合わせてそばの販売をしていたはず。
旭川での深夜の立ち売りも懐かしいです。
音威子府の蕎麦屋さんも駅舎で営業していましたが、閉店してしまいましたね。淋しい限りです。
すごいなあー
「途中やかましゅうございますから」の言い回しが良いですね(笑)
列車の放送ではあまり聞かないですね。上品な日本旅館で聞きそうな感じです。
「あぶのうございます」って危ないですからの意味ですがそんな優しい日本語が多々ありましたよね…
急行利尻、急行大雪が旭川で当時深夜乗換えができた。網走深夜発で旭川乗り換えで早朝稚内到着した記憶。臨時利尻51号が帆延で定期急行を追い抜くのが面白い
B寝台イラストの、上・中・下を、松・竹・梅にすれば表現が柔らかくなるかも(^^; 幅52㎝でも落っこちる人は見たことありませんでした。AB合造車も貴重な車両でした。
旧型客車のB寝台は窮屈だった記憶があります。4人掛けの座席を1人で使えるなら、自由席の方がラクだった気がします。友人と二人、これをC寝台と呼んでいました。
’98年、旭岳と利尻岳をはしご登山をした時、旭川から稚内まで乗車しました。
懐かしいです。
うわっ。登山とはすごい。わたくしは貸自転車で利尻島一周がせいぜいでした。
30年ほど前、抜海駅で駅寝をして朝ホームに出て伸びをしていたら、下りの利尻が通過していきました。
14系だったと思います。
抜海駅といえば貝殻を張り付けた駅名板を思い出します。
こういう夜行列車に乗りたいですね。
しかも急行というのが最高!
急行が次々に特急に格上げされて姿を消していく中、宗谷本線の急行は最後の方まで残りましたね。
10系客車や旧型客車のグリーン車は旅に出られる年齢になった時には既に淘汰済で乗れませんでした
一度乗ってみたかったです
高1で初めて北海道に行った時、宗谷本線で唯一乗った急行はキハ54の礼文
14系だった利尻や天北は時間が合わず未乗です
天北線も名寄本線もまだ有った時代…
51年は生まれてないけど何故か懐かしい…
廃止になった列車や路線に思いを馳せ、懐かしさを感じて頂ければ何よりです。
私はわからないA寝台車、グリーン車付きの利尻号の車内放送は貴重な資料と思います。夜中に旭川駅で弁当を販売しているとはすごいですね。鉄道利用があったからでしょう。情緒ある放送と思います。以上です。
当時は周遊券の旅で、乗るのは自由席ばかり。A寝台やグリーン車は雲の上の存在でした。
客車の揺れに身を委ねて眠っていても、停車の感覚でふと目が覚め、「どこかな?」と車窓を見ると旭川。ホームの照明が眩しく、賑やかに行き交うお弁当や飲み物の立ち売り・・・そんな光景が印象的です。
地図には今はもう無くなってしまった路線図もありましたね❗懐かしい👍
羽幌線、天北線・・・など、路線名を放送してくれて嬉しかったです。
貴重です。懐かしいです。
思いがけず「貴重」「懐かしい」そんなお言葉をたくさん頂戴し、嬉しいです。
利尻乗りたかったなぁ…末期には頑張れば乗れたのに、もうちょい本気でバイトしてれば…
若者たちは今乗りたい列車、多少無理してでも乗っとくべきよ…。まあコロナだから難しい面もあるかも知れないけど。
「あの列車が存続しているうちに乗っておけば良かった・・・」と思うのは今も昔も同じですね。日常的に走っている列車が、いつの日かなくなってしまう・・・などとは思わないものですから・・・
路線図が、複線区間がわかるようになってる、、、懐かしい。
録音も貴重ですが、、、
路線図が。。。。魚の小骨を取り除いて、さらに大きな骨も取り除いて。。。
背骨のみが残っている感じですね、、、
この当時に比べて、今の路線図はすっかりさびしくなってしまいましたね。
@@急行-宗谷 さん
大都市並みに主要駅で分岐していた路線が無くなり、残った1本の宗谷本線も廃止を否定しきれない状況。
鉄道は、マイカーが使いにくい都会で人が超たくさん乗る、貨物の大量輸送、新幹線での高速輸送でしか成立しなくなっていますね。
オロハネ10に時代を感じる。
変わった寝台車なので1両残して欲しかった。
停車駅は江別が入ってるくらいで現在の特急とほぼ同じですね。
急行と特急の違いは、停車駅や速度だと思っていましたが、いつの頃からか車両の違いになってしまった感じですね。
そのうち、名寄より北の路線も廃止になるのでしょうね…。
何とか、北海道の鉄路を守る、良い方法は無いのでしょうか…。
天塩川沿いの線路が自然災害で甚大な被害を受けたら・・・などと考えると、今のうちに乗っておかねば・・・と思います。その前にコロナが収まってほしいものです。
実際、乗って数字をあげるしかないかと。付随して物販、通販…JR北と東の動向がきな臭い以上、ギャフンと言う収入が無いとな。
でも、現実厳しいですよね。いつの間にか札幌交通圏以外は『乗ってください』のダイヤから『アリバイの』運行に変わり駅前も廃れ。車輌延命で札幌ー旭川以遠は乗り換えってどういう事?ツインクルプラザも廃止だし。
大黒字のJR東海か東日本が吸収するしかないですね。
オロハネ10型500番台は北海道仕様ですが、本州仕様の車両は急行さんべが最後でした。A寝台はエアサスではありませんでしたが、乗りたかったです。ちなみにオロネ10型は乗車経験があります。利尻には何度も乗った経験があります。いずれも北海道ワイド周遊券なので普通車自由席でした。旧型客車のほうが114系よりも眠れた記憶があります。簡易リクライニングシートは夜行には向かないです。
わたしは閑散期にばかり旅行していましたので、夜行列車では4人掛けボックス席を1人で使えてラクでした。
私は若い頃陸上自衛隊名寄駐屯地に3年9か月間訓練に従事していましたが年末年始休暇で内地に帰る際は必ず利用していたのを思い出しました!
寒冷地での訓練は大変だったことと思います。それだけに休暇で帰る時は楽しみで、印象深かったことと思います。ご苦労様でした。
客車時代の利尻は、乗ること叶いませんでした。味がある案内ですね。
特急時代にB寝台に乗ったことありますが、『特急利尻でございます』の案内に旅の気分が高まったのを覚えてます。
寝台車に乗った時のワクワク感は何とも言えないものがありましたね。
旭川で降りる人っていたんでしょうか?降りるとしたら起こしてくれるんでしょうか?
ギシギシという音がいい味を出していますね。
ジーゼル(DD51)より更に前のころ、C55牽引で、抜海の辺り遥か沖合に利尻富士が見える姿は、さぞかし絶景であったろうなぁ。多客時には客車も増結されて、重連で越えていくのは、南のC55と共に良い被写体だったろう。
C55牽引の頃は乗ったことがなく、写真で見るだけでした。
夜汽車に揺られ、暗闇の中に時折聞こえてくる蒸気機関車の汽笛・・・そんな雰囲気を味わってみたかったです。
コロナウィルスに負けるな!車に負けるな!頑張れ!宗谷本線!大阪から応援しております。宗谷本線乗りたい!
宗谷本線は、途中から分岐する支線が全てなくなってしまい、枝を切られ、幹だけが残った樹木のようですが、それだけに頑張ってほしいものですね。
寝てても移動できるなんて素晴らしすぎる😭
夜行列車がまだあったら飛行機は使わないかもしれない。。。
夜間の移動としては、都市間を結ぶバスが各地にありますが、やはり夜行列車は独特の味わいでした。
単に移動の手段としてだけでなく、乗ること自体を楽しめました。
いつも楽しみにしているのですが、
見る度に気になる旭川をあさひ「が」わと濁る言い方をするのは何か訳があるのでしょうか?
横から失礼します。
元々の駅名の読み方が「あさひがわ」駅だったんですよー
いつだか、市名にあわせて「あさひかわ」駅に変えました
@@晋太郎三谷 あーなるほど。たまにある自治体名の読みと駅名の読みが一致しないパターンだったんですね。
1:55 の時刻表でもわかるように、1988年以前は「旭川」駅は「あさひがわ」が正式の読み方だったのに、この車掌さんはどう聞いても「あさひかわ」と発音してるのが謎。
1:55 では「あさひがわを出ますと」と言ってるようにも聞こえるけど、1:28とかは「あさひかわ」って言ってる。
@@alfayoko もしかしたら、旭川出身の車掌なのかもしれませんね。駅名が「あさひがわ」だっただけで、地元ではずっと「あさひかわ」呼びだったはずです。
な~るほど。納得のいく推察ですね。
@@急行-宗谷 五十嵐広三・元旭川市長(社会党)が、村山内閣の官房長官に就任した時の記者会見で「私は"あさひがわ"の市長を12年経験しまして…」と述べたのを聞いた記憶があるので、地元の人でも古い人は「あさひがわ」読みをする人も一定いるのではとも考えられます。
当時の夏は、本州から北海道へ鉄道と青函連絡船で旅する人が多かったようだ。自分はまだ小学生で時刻表で予定を組むだけ事しかできなかった。それでも札幌を発着する夜行急行は、「利尻」だけでなく「狩勝」「大雪」「すずらん」と4本ありそれぞれ個性があったようだ。「利尻」は下りで稚内へ向かう車窓途中、朝日が昇ったサロベツ原野を見渡し、さらに列車名のごとく利尻、礼文島へフェリーで、というのを空想しながら、いつかは乗りたいと思っていたが、時代の流れは速く、大学生になったときは千歳空港に駅が出来、「すずらん」は廃止、「利尻」を含めたほかの列車は一般客車から14系化されて、さらにJRになってからさらに省力化されてしまい、現在では夜行列車そのものが無くなり、北海道へ渡るというブームも落ち着いてしまった。
北海道の夜行列車はスゲー懐かしい😢⤵️⤵️
路線リストラを思えばかなり無惨悲劇よ😢⤵️⤵️
10系寝台、A寝台は乗ったけど、客車列車のグリーン車には…乗りたかったな😊
深夜2時過ぎでも旭川27分停車中に駅弁買えたのか? 深夜販売?
旭川で深夜の駅弁販売、やってましたね。
1990年代初頭まであったような気がします。懐かしいですね。
時間的にあるわけないと分かっていても、羽幌線、天北線、美幸線、名寄線、深名線への乗り継ぎは翌朝までありませんとわざわざアナウンスしてたんだなぁ。
本州なら「連絡列車はありません」で終わりますが、北海道では「明朝の連絡です」という案内が多かったような印象です。
稚内から札幌へ。
急行利尻は9時間をかけて走りました。
道内を寝台列車が走っていたなんて、今では考えられないですよね。
昔の北海道。
国鉄が縦横無尽に北の大地を巡っていました。
ニシンで栄えた羽幌線。
帆立の猿払は天北線。
石炭を満載して走ったのは夕張線。
ニシンに石炭は北海道を代表する産物であり、国鉄貨物の全盛期。
やがて、ニシンも石炭も採れなくなり、同時に鉄道が衰退の一途に。
天北線が元気だった!
羽幌線が元気だった!
深名線が元気だった!
広尾線が元気だった!
標津線が元気だった!
挙げたらキリがない。
北海道の鉄道が元気だった頃の、古き佳き時代が本当に懐かしい
ほんと、昔は鉄道が元気でしたね。そんな遠い昔を思い出し、懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
旭川を「あさひがわ」と放送してますね
国鉄の時代はわからないけど、今との違いで国鉄を感じるなら、20代の我々にはそれしかない…
「夜汽車」という情景...
人生ってなんだろう。
日常の生活に疲れ、ふと、全てを捨てて、夜汽車に揺られる旅人になってみたい・・・そんな気持ちになったこともありました。まあ、そうはならずに普通に生活し、静かに年老いておりますが・・・
よつば3.4牛乳 懐かしい 黄色の三角パックだね
夜汽車に乗って旅行したいな。
座席車だと疲れるから寝台車が良いな。
ちょいと奮発してA寝台車に乗れれば
最高だ。
全国に当たり前のようにあった夜行列車も今ではサンライズのみ・・・こんな時代になろうとは・・・。
もっと乗っておけば良かったと思います。今にして思えば、確かに座席より寝台で・・・
AB寝台の時代だね。
当時 稚内・南稚内駅にキオスクが
その時間まで営業していた。
旭川駅で 深夜駅弁の販売があった。
蘭留ー和寒間で補機の連結があった。
ABの寝台合造車ってどんなかんじなんだろ? 乗ってみたかった
夏場 特に下りは満員だった。
利礼航路の運行状況の放送もあった。
臨時利尻51号もあった